第2話

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ただしがラップを始めるYo 第2話

ちょっと詳しくなっただし。 ラップやヒップホップ,グラフィックアートを交えながらわかりやすく解説

2015/12/14

みずの

8

ラップ ヒップホップ グラフィックアート 音楽 ブレークダンス ブロンクス ヒスパニック

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  • 前回ラッパーの体で登場しつつ実は何も知らなかったただしですが、今回ミカド・テイラーを中心に色々教えてもらったようです。これで本格的なラッパーになれるかな。

  • ヒップホップは1970年代初頭に、ニューヨークのサウス・ブロンクス地区で生まれました。

  • 意外と新しいんだし!

へー
  • その地域は、貧困でドラッグにおぼれる人や、ストリート・ギャングが多い地区であり、古いボロボロの建物が並ぶ町でした。 1970年代当時、世間ではディスコが大ブームだったのですが、貧困なアフリカ系アメリカ人の若者達は、ディスコに遊びに行くお金がない。そこで、彼らは公園に集まりパーティーをするようになるんです。 家から運んできたターン・テーブル(レコード・プレーヤー)を、外灯のコンセントに差込み、DJがレコードを回すなかでダンサーが踊り、グラフティー・アーティストは建物や列車に絵を描き、MCはラップを披露しました。

へー
  • 遊びにハングリーだし!

  • パーティーは、ブロック・パーティーと呼ばれ、貧困な若者達は、お金のかからない公園で遊んだ。ヒップホップのオールドスクールの始まりである。 世の中、人が集まるところには、リーダーやカリスマが存在するものだ。もちろん、これらのパーティーのなかでも、3人のカリスマDJが存在した。若者達は、彼らが出現するブロック・パーティーに足を運ぶようになる。 その3人とは、クール・ハークアフリカ・バンバータグランド・マスター・フラッシュの伝説のDJ達だ。この3人は、ヒップホップの歴史では、祖と称されている。

ふむふむ
  • なんだってだお!?元祖エロゲーマーの僕と同じような立場の人だお!

  • 全く違うだろ。常識的に考えて。

  • 1954年生まれのクール・ハークは、母親の影響でブラック・ミュージックにはまっていた。 当時はディスコが大ブームであり、ディスコDJ達は、流行のレコードを回していた。しかし、クール・ハークは少し違った。 誰も知らないような古いレコード(ファンクやソウル、R&B)を回しては、ダンサーを踊らす日々をすごしていた。 クール・ハークは、レコードを回すなかで発見をした。 一曲のなかでブレイク・ビーツ(間奏)が一番盛り上がることに気づいたのだ。 そして、同じレコードを2枚持ち出し、2台のターン・テーブルでつないで、ブレイク・ビーツを長く保った

  • ブレイク・ビーツだお!?何てかっこいい名前だし!

  • そうなんですよ。これがヒップホップの音楽シーンの始まりであり、 DJの基本となるんです。

    長いブレイク・ビーツのなかで、ダンサー達は独自のダンスを披露し、パーティーは盛り上がりを見せる。 ダンスはブレイク・ダンスと呼ばれ、ブレイクダンスをする少年たちをB-BOY(ブレイク・ボーイ)と呼ばれだしたのはこのころからである。クール・ハークがB-BOYと命名したとも言われている。 彼がよくかけていた曲で、インクレディブル・ボンゴ・バンドの"APACHE"がある。(後にシュガー・ヒル・ギャングがカバーをしている。) クラブ通いをしている人なら一度は聴いたことがあるだろう。そう、ヒップホップをと例えるならば、APACHEは国歌的存在の曲だ。 クール・ハークのテーマとして、現在でもヒップホップ・シーンで受け継がれている。

  • なるほどだし!知らなきゃモグリだし! ザ・パンチ!

  • それは芸人だな。モグリ野郎め。

  • 一方、ブロンクス最大のストリート・ギャング集団 "ブラック・スペイズ" のリーダーだったアフリカ・バンバータは、幼いころから母親の影響でレコードを数多く集めていた。 彼はクール・ハークのDJプレイに影響され、DJの技術をどんどん身につけていく。 その実力は、「マスター・オブ・レコード」と呼ばれるまでになる。 70年代半ばにストリート・ギャング集団が消滅したころ、アフリカ・バンバータは、DJやMC、グラフティー・アーティスト、ダンサーを集めたヒップホップ組織、ズールー・ネーションを立ち上げた。 この組織は、暴力やドラッグなどの無意味さを訴え、正義、平和、自由、愛・・・等を信念とし、ヒップホップを盛り上げていく。 現在ではユニバーサル・ズールー・ネーションに発展し、国際的な活動を行っている。

  • 「マスターベーション・オブ・レコード」 とはなかなか半端じゃない名前だし!

  • お前ガタイのいい外人に両サイドから腕捕まれて連れて行かれるぞ……

  • バンダータの偉業はまだまだあるんです。

  • バンバータは、なんとファンクの神様 "ジェームス・ブラウン" との合作 "Unity" をリリースしている。 この曲は平和、調和、愛を6曲に渡り訴えている。感動ものの1枚だ。 また、82年にソール・ソニック・フォースとの曲"プラネット・ロック"をリリースする。 この曲はヒップホップの歴史に名を残した、言わば大革命の名曲である。

  • ジェームス・ブラウンって、僕でも知ってるし!神様だし!

  • そうなんです。 そして次はグランド・マスター・フラッシュです。

  • グランド・マスターベー…

  • もういいわ!

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  • グランド・マスター・フラッシュは、カリスマの3人の中で、一番エンターテイメント性が強い人物である。彼は、DJのプレイ中に、客に背中を向けてDJプレイをして喜ばせたりした。また、フィリアス・ファイブをMCとして一緒にパフォーマンスを行う。 このDJと数多くのMCというスタイルが流行となる。 コールド・フラッシュ・ブラザーズやDJセオドア&ファンタスティック・ファイブ、DJブレイク・アウトが所属するファンキー・フォー・プラス・ワン等など。 クラブではMCバトルが繰り広げられていた。

  • なるほどだし! じょじょにスタイルが決まっていったんだし!

  • そういうことなんです。

    ヒップホップのライブビデオを見たときや、クラブに行ったときに 「Say,Ho-!」との掛け声をよく聞くと思うが、これを叫びだしたのはフィリアス・ファイブだそうだ。 グランド・マスター・フラッシュのMIX・CDを聴けば、ヒップホップの誕生を耳で感じることができる。

  • よし。次はラッパーズ・ディライトの話ですよ!

  • …………zzz

  • 長いわね…

  • 皆さんシュガー・ヒル・ギャングは知っていますかー?

  • 知らないお!

  • 素直ですね。

  • なんなんだ?それは?

  • 1970年中頃から後半にかけて、貧困な黒人の若者達は、公園に集まっては、DJが回すレコードの中で、ダンスラップグラフティー・アートを楽しんでいた。 ヒップホップ文化が猛スピードで発展していたさなかに、79年、驚くことに、ストリートでは無名のラップ・グループが突然レコードをリリースした。 ブロンクス出身ではなく、ニュージャージー出身である3人組の彼らは、シュガー・ヒル・ギャングというグループ名だ。 リリースした曲名は"ラッパーズ・ディライト"という。 ブロンクスのB-BOY達は、「こいつら何もんだ!」と思っただろう。 "ラッパーズ・ディライト"は世間に浸透していき、なんと、ポップ・チャートで36位まで上り詰め、世の中に、初めてヒップホップの存在を知らしめた。

  • しかし、何者かよく分からないし!シュガーヒル・ギャング

  • なるほど。では、彼らが生まれるまでのストーリーを お聞かせしましょう。

    1977年に、あの有名な映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が上映され、ディスコは最高に盛り上がっていた。 だがそんなブームは長くは続かず、79年頃に終わりが近づいたころ、音楽業界人は次にブレイクしそうな音楽を探していた。 そんななか、一人の音楽業界人であり、R&Bシンガーでもあり企業家でもあるシルビア・ロビンソンが、息子(ジョー・ロビンソン)の影響を受け、これからブレイクしそうなラップに目をつけた。 彼女は早速、ブロンクスのクラブにラッパーをスカウトしに出向いていくのである。

ふむふむ
  • なんだお?本当に映画みたいだし! 僕にもスカウト来ないのかし?

  • 何でスカウトするんだよ?

  • そんなこと聞かれて一番困るのは僕だお!

  • (威張るなよ…)

  • つまり、彼女がきっかけとなったというわけなんです。

    シルビア・ロビンソンは、クラブでビック・バンク・ハンクという男に出会った。 この男は、コールド・クラッシュ・ブラザーズ(ブロンクスのB-BOY)のマネージャーをしており、それと平行して、クラブの警備員をしていた。 仕事先のあるクラブで、コールド・クラッシュ・ブラザーズのラップを披露していたところを、シルビア・ロビンソンに気に入られ、「レコードを出す気はないか」と誘われた。 そこで、ビックバンク・ハンクは、その話をコールド・クラッシュ・ブラザーズのメンバーに一応は話をしたが、自分の友達2人を誘って3人組のグループを結成した。 それが、シュガー・ヒル・ギャングなのだ。 コールド・クラッシュのライム(歌詞)を、ディスコの最後のヒット曲といわれているシックの"Good Times"のトラック(カラオケバージョンみたいなもの)に載せて、"ラッパーズ・ディライトは完成した。

  • なるほどだし!伝説誕生だし!

  • もちろん、ブロンクスのB-BOYたちは無名の彼らのことを完全に受け入れたわけではなかったはずですよ。けど、一つのきっかけにはなったはずです。

  • ヒップホップ文化が世間に知らされたという事実で、ストリートで有名だったアフリカ・バンバータやグランド・マスター・フラッシュなどは、本場の実力を見せ付けるチャンスが到来した。 そして、この先、大ヒット曲を、次々と生み出していくこととなる。 このことから、ラッパーズ・ディライトは、ヒップホップ文化において、重要な役割を果たしたといえるだろう。(クール・ハークは特には目立つ行動をしなかった)

  • ということなんで、色々ありまして…

  • いや、何か急に急いだし!

  • まあまあ気にせずに。

  • 確かにラップの歴史を全てひも解くとエラいことになるからな。

  • 1989年に、ヒップホップ界に「ネイティブ・タン(Native Tongues)」というトライブが新たなヒップホップをもたらした。いわゆる、ニュースクール時代の幕開けである。 ネイティブ・タンとは、ギャング的なものではなく、また、組織でもない。ポッセやクルーといった仲間でもない。意気投合したヒップホップのグループ同士が集まったトライブ(部族)である。 このトライブは、三つのグループが中心核となっていた。 そのグループとは、ジャングル・ブラザーズ(Jungle Brothers)、デ・ラ・ソウル(De La SOUL)、ア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)だ。 この三つのグループの登場により、ニュースクール時代が到来した。

  • なんだお?新しい学校っていうのは?

  • 学校じゃないんだが、スタイルが変わったんですよ。 1980年代と言えば「タフ」が主流だったんだけど、 変化がおとずれたのです。

    RUN・DMCやBig Daddy Kane、Slick Rickなど、首には太いゴールドチェーン、手にはごついゴールドの指輪。ライムの内容も、犯罪や銃、金など、自分がいかにタフかといった内容が多かった。

    しかし、「ネイティブ・タン」は違った。彼らは中流階級出身で、見た目に「いかつさ」が無い。首には太いゴールドチェーンも無ければ、ごつい指輪も無い。 ラップは会話形式で、スラングを使わずに自分自身をリスペクトした内容。言わば、真面目なスタイルで、ユーモアのある新しいヒップホップだった。

  • そうなのかし!本場のヒップホップは全てゴリゴリだと思っていたし!

  • そんな時代に日本で初めてお茶の間にラップを知らしめたのは、スチャダラパー featuring 小沢健二の、「今夜はブギーバック」ではないでしょうか。

  • 映画モテキで流れて、最近また流行ったし!

  • そういえばあったな。

  • この曲は50万枚のヒットを記録し、日本にヒップホップを浸透させるきっかけを作った。

    アメリカでは、1980年代後半に、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザーズ、トライブ・コールド・クエストという、新しいスタイル(ニュー・スクール)のラッパーが出現し、時代が、オールド・スクールからニュー・スクールへと移行していた。 そんな時代の1988年に、スチャダラパーは結成され、1990年にデビューを果たした。 DJシンコが作るビートは、ニュー・スクールをリスペクトしている感じで、今でもファンが後を絶たない。 スチャダラパーは、日本に新たなビートをもたらし、さらに、面白いラップで、お茶の間を喜ばした。

  • それからじょじょに日本にラップが浸透していくんです。

  • なるほどだWo

    Yoこれが日本のラップでIPPON!

    基本だお!女は消えていくまるで気泡!

    秘宝館には行きたい一度〜Yeah!

  • (センスあるような無いような不思議なやつだな…)

www
乙!
  • おわり

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